わたくしどもでは来る12月25日より、言葉と音楽のシリーズ第2弾として、そして、兵士の物語プロジェクト第2弾として、石丸幹二出演「兵士の物語」を製作する運びとなりました。(ストラヴィンスキー作曲、ラミューズ台本、岩切正一郎訳、白井晃演出)。それに先駆けるかたちとして今年の9月に新国立劇場にて「英国ロイヤル・オペラ・ハウス版」兵士の物語を招聘・制作いたしました。この「兵士の物語」を兵士プロジェクトのパート1と位置づけています。そして12月の公演をパート2とし、近い将来パート3として、パート1とパート2のキャスト・スタッフコラボレーションによる兵士の物語の製作を計画しています。
「兵士の物語」に関しては、これまでにいっこく堂と篠井英介バージョン、西村雅彦・西島千博・酒井はな・西本智実指揮バージョンを制作してきました。毎回作品表現の可能性を追及し、上演形態の研究を重ね、上演してきました。そうした中で9月に上演した兵士プロジェクトパート1の「英国ロイヤル・オペラ・ハウス版」兵士の物語は、ストラヴィンスキーの基本コンセプトをしっかりと礎に持たせた上で斬新なアイディアをたくさん盛り込ませた展開が、大変魅力的に仕上がっておりました。
今回私どもがお届けする「兵士の物語」パート1とパート2は同じ作品であるにもかかわらず、アプローチが全く異なります。両方のヴァージョンの体験を通して、「兵士の物語」の持つ表現の可能性を実感していただきたいのです。
パート1は、登場人物すべてがあらわれ、指揮者とオーケストラ7人を配し、ストラヴィンスキーの音楽を管弦楽で聴かせます。そして兵士/アダム・クーパー、悪魔/マシュー・ハート、王女/ゼナイダ・ヤノウスキー、ストーリー・テラー/ウィル・ケンプが、バレエを踊りながら、セリフも担います。これまでの「兵士の物語」というと、芝居のパートは俳優が、バレエのパートはダンサーが、それぞれ演じ分けるという性格を見せてきました。ですが、この「英国ロイヤル・オペラ・ハウス版」兵士の物語は、ダンサーが全てを表現するという、斬新な手法が関心を集め、興味深いプロジェクトとして話題を独占したのです。
一方、白井晃と石丸幹二が創りだすパート2は、すべてのキャラクター(登場人物)を石丸幹二ひとりが演じ分けるというものです。しかもストラヴィンスキーの音楽は、オーケストラによるものではなく、石岡久乃のピアノと平子久江のパーカッションが奏でるという、スケルトン状態で作曲者の本質に迫っていく舞台になります。
言葉と音楽シリーズについて
これまでにわたくしどもは「兵士の物語」(2001、2003)をはじめ、「キャンディード」(2001、2004)、「コントラバス」(2004)、「奇跡の人」(2006)、「チェロを弾く女」(2008)、「見知らぬ女の手紙」(2008)といった作品の制作や企画をとおして、今後さらにことばと音の関係について探求するための作品づくりに携わり続けたいと思いました。
そこで「言葉と音楽」のシリーズと銘打って企画することになりました。そのシリーズ化第一弾が、2009年1月に上演した「イノック・アーデン」です。
プロジェクトの立ち上げから、企画に深く共鳴してくださった石丸幹二さんと、舞台上の音楽というものを非常に重要視した作品作りを続けられている白井晃さんを迎え、クラシック音楽と、演劇的見地からとらえた朗読の融合という新たな舞台として、好評を博しました。
石丸さんは、音楽への飽くなき探求心を持っていらっしゃるばかりでなく、これまで数々の舞台で演じてこられた演劇、ミュージカルの作品をとおし、日本のことばを表現されてきました。そのことばに対する愛着やこだわりに計り知れぬものがあっても不思議ではありません。
その石丸さんと、再び「言葉と音楽」シリーズで共に作品を創りあげていくことが出来るということは、楽しみでなりません。
新約聖書のヨハネ傳福音書の冒頭に、「はじめにことばあり、ことばは神とともにあり、ことばは神なりき。このことばははじめに神とともにあり、萬のものこれによりてなり、なりたるものに一つとしてこれによらでなりたるはなし」とあります。このメッセージはわたしたち人類にとって敬虔なる思いをよびさましてくれます。ことばを粗末に扱うことは神を粗末にするということ。神を粗末にする、ということは現在に置き換えると生きるということを粗末にすることにほかならないでしょう。ことばが至らないとなにかと人生が至らなくなりますし、ことばが適当だと、人生も適当になりがちだったりします。ですから、私たちのことばである日本語を深く理解し、大切に思い、豊かにすることで人生を豊かにしてゆきたいと考えます。 そして、ことばと音楽の関わりの原点を聖書に想定したとき、その姿が見えてくるのです。グレゴリオ聖歌のころから(むろん原始的な舞踏のリズム云々というものは別ですが)、音楽は聖書のことばと合体して発達してゆきました。樹に蔦がからむようにして。そして、バッハの時代以降、調性の発見を経て音楽とことばの関係が対等になり、リートやフーガ、ソナタといった形式が発生するようになって音楽は主導権を握るようにすらなったのです、ことばから独立して。ことばが現実という大地に縛られていながら、音楽は自由な翼を手にし、新しい芸術の世界を創作したのでした。モーツアルトの時代はことばをレチタティーヴォに押しつけ、ベートーヴェンはシラーのことばとともにあろうとしましたが、音楽の付随的役割になっているように思えてなりません。シューベルト以降、ドイツのリートに於ける試みとワーグナーにおける楽劇の展開がことばと音楽を高い次元において共同的に作用するよう合体を手中におさめました。しかし、ことば(彼の場合、詩において)と音楽(音楽性)個々に課題を残すことになりました。結局二つは、異なった力でありながら独自の方法で同じことを発しようとし、同じ要素ながら決して溶解しえぬ同一質であることを知った私たちは、ことばと音楽が恋愛的な同棲生活を営む瞬間を見つけ、合体して一つの巨大な流れをなす作品を舞台にかけていかなくてはならない、そう決めたのでした。